私は、10代の頃から「私」は、存在しているのか?という根源的な問いをずっと持ち続けてきました。何の為、「生」を受け、この世に存在しているのかという哲学的な問いについてです。私は、私の原風景の象徴である「襖」を用いながらずっと何故、「私」は、存在しているのか?と夜、眠れなくなり、京都の学生時代、西田幾多郎と同様に銀閣寺から南禅寺に通じる「哲学の道」を朦朧としながら徘徊していたのでした。観光客には、雅の道ですが学究者や芸術家にとっては、地獄の道がその正体です。
私は、ずっと襖を使った世にも奇妙な襖作品の時空間の中で自身の存在論について苦しんでおりましたが悟りの境地に近付いたのか「私」は、実は、何を隠そうその正体は、「襖」だったと事に気が付きました。敷居と鴨井という限定された時空間の中を他者との境界線がわからず人間関係に惑いながら交互に行ったり来たりする前衛芸術家として既存の価値観に果敢に挑むも既存の勢力に排除され、襖を外されたり、破かれたりという人生を生きて来ました。
私は、カブいたタイプの襖の芸術家ですがもしかしたら多くの表具屋も自分とは、何者なのか?何の為に生きているのか?堂々巡りの自問自答を繰り返しながら生き、そして、
死んで行っているかもしれないと想像を張り巡らしました。私同様、名もなくとも襖と共に生きる表具屋たちは、気が付かない内に「私」=「襖」という人生を生きているかもしれません。日本から「襖」が消滅する事。それは、「私」が存在しなくなる事を意味するのと同じ事かもしれないと思うようになりました。
それ故、この背水の陣において私は、「私」=「襖」を護る為、強く戦う意味を有しています。そして、尚且つ凋落激しいと言われる襖業界を私たちの世代で後の世代に繋げる為に護る行動に動く必然性を有しています。「私」は、「襖」です。笑えませんか?もしかしたら「私」は、もはや人間ではないのです。「襖」の精霊、妖怪かもしれません。
学生時代よりずっと襖の作品を製作していますがたまに製作する大きな襖の立体彫刻の作品の中で私は、一体何者なのか悩み続けていました。まさか、「私」が「襖」だったとは、知る由もありませんでした。私自身が「襖」と自覚するには、あまりにも長い時間を要しました。もとい、襖製作に従事する方々も私と同じく「私」=「襖」という存在証明を有する人々かも
しれません。
2
2
1
0追蹤中10追蹤者
作品
在ArtSticker上展示2 的作品。提供2的作品的尺寸、材料、概念以及藝術家信息包括個展和簡歷。
加入等候名單
目前沒有2的作品出售。 加入等待名單,以便在有作品可供購買時收到通知。
簡歷
簡介
2







