昨年の夏に制作した作品です。Arttickerのみでの公開となります。
栃原比比奈
画家
画家
1977年東京生まれ
2001年多摩美術大学絵画科油画専攻卒業
建築家の父と経営を共にしていた母の趣味で幼少期から頻繁に引っ越しを体験。小学生の頃から周囲と馴染むことが出来ず、父親の影響で絵を習い始めた。以来、絵の中に居場所を見出す。2浪して多摩美術大学で油絵を学んだのち経済的理由から就職。その後20年あまりは不遇の日々を送る。
30代後半は南国に魅せられ、沖縄や九州地方を放浪。燦燦と降り注ぐ太陽の日差し。空の広さ。木の陽気な姿や透き通った海などをモチーフに自分の絵について試行錯誤する時間を過ごした。
転機は2021年。禅の思想に触発され「人生をどのように生きるか」が「絵をどう描くか」に直結していることに気づく。
2001年に多摩美の油画を卒業後、継続して絵と向き合う中で「歯車がかみ合った」と感じたのは2022年9月のこと。吹き抜ける風や移ろう時間、記憶の断片を、素早く絵具に乗せて描く。
「速描」に活路を見出して描いた5枚の顔のオイルペインティングが契機となった。
手ごたえを感じて以来、日々新鮮な気持ちで絵と向き合っている。
私の背景について
私は今までに21回、小学校を卒業するまでに5回引っ越しを経験している。シャイな私にとって「別れ」も「出会い」も不安と緊張を伴う一大イベントだった。私は小学5年の時に洋画を教える絵画教室に通い、ヨーロッパの印象派風味の絵と細密デッサンを教わった。その時からどこに行っても絵だけが変わらない住処になった。洋画を手本にしたからか、日本人なのに日本画の素晴らしさに気づいたのは最近のことだ。
高校1年で初めて美術館で絵画を観た。まだインターネットがない時代だったので強烈に覚えている。クレー・ゴッホ・ムンクの絵は多感だった私を刺激した。その当時、私はビートルズは聞かずポールサイモンをこっそり聴く少女だった。巷ではジャニーズ、サザンオールスターズ、尾崎豊、スピッツ、、、みたいなキラキラした日本のスター達が流行っていた時代に、私は二つくらい世代を間違えたかのように、ポールサイモン・高田渡・細野晴臣・ハッピーエンドをこよなく愛する中学生であり、高校生だった。
私の父は建築家で、幼い頃は京都によく連れていってもらった。しかし、その時目にした神社仏閣・仏像・絵画は二の次で、幼い私は日本庭園の風景と周辺のみやげ物屋で売られていた工芸品に心躍らせた。12歳まで、私の興味はもっぱら陶器やガラス、漆塗りの器だった。枯れたものに惹かれ、歳をとった職人の姿やしわくちゃな手指、無骨な労働者に憧れた。
中学3年で画家になろうと決意し、美術大学専門の予備校に5年間通い、2浪して多摩美術大学絵画科油画専攻に入学した。日本経済はちょうど転換点を迎え大手金融機関が連鎖的に経営破綻し不景気になった。例外ではなく父の仕事も経済的に困窮し、弟まで美大に入ったため大学卒業後は就職するしか道はなかった。就職先は選ぶ余地もなく、日本のポップカルチャーを代表するキャラクターで有名なサンエックスという会社に入社した。私はそこでたくさんのぬいぐるみたちに囲まれながら、毎日死んだ顔をして癒し系やなごみ系のKawaii(かわいい)と格闘し疲弊し、心を病んだ。
その後はずっと不安定だった。退職してフリーターになった。結婚して離婚をした。東日本大震災の惨状を目にした。いじめや暴力、性差別や引きこもりも体験した。沖縄・九州地方を数年間放浪した。再び落ち着いて絵を描くまでに、引っ越しや両親の離婚と復縁、それにまつわる生活再建など様々な事があり、膨大な時間とエネルギーを失った。しかし、それでも「私には絵しかない」という気持ちだけは失わなかった。
アジアにはZen(禅)という思想があり、その考え方はおおむね「マイナスのものをプラスに転じて考える」というものだ。私は中学・高校時代をプロテスタントの女子校で過ごし、ヨーロッパのキリスト教の歴史や聖書の勉強を6年間した。聖書の成績はとても良かったが、私にとって一神教の思想は共存は出来ても生き方にはならなかった。それよりもZen(禅)の思想の方が、日本人としての私のアイデンティティーに深く関わっているように感じている。
人生が100年時代になったという。もしそうなら、半分くらい生きたことになる。生きていれば苦楽がある。私にとって苦しい時は花鳥風月が、楽しい時は他者とのかかわりが、私の支えになっていた。苦しさを思う時、何故か木々や草花などの風景と、空から降り注ぐ光の束が脳裏に浮かんでくるのは、きっとそれなりに生きてきたからなのだろうと思う。